旅 便 り

椅子の画

旅便りその五 ヴァンクーヴァー(ニ)
 (2000.7)


 「ヴァンクーヴァーの家に着き次第ちゃんと机の前に座って原稿書きにとりかかるからね」と、鞄の中に押し込められたままのノートパソコンに言い聞かせながら旅をして来たのだが、やつぱりここは仕事をするような場所ではない。毎日なにはともあれ外に出て歩き出す。全身これ深呼吸で、歩くほどに心身が甦っていくのがわかる。
 この街は自然もさることながら、立ち並ぶ家々がまた魅力的だから、散歩をしていて飽きることがない。私が惹かれる家はたいてい中の上クラスで築後六、七十年以上、幽霊の一人二人は棲み付いていそうな家だ。暗くて陰気という意味ではない。幽霊も立ち去りがたいほど景色と居心地がよく、それからどこか無駄というか非合理な空間のある家である。日曜日にはオープン・ハウスになっている売り家があるので、遠慮なく中を拝見する。日本人はいまだに不動産投資が好きなお金持ちだと思われているから、エージェントが色めきたって隅々まで丁寧に案内してくれる。「まあ、とても使い勝手のよさそうなキッチンね。お料理に弾みがつきそう」とか「ここを書斎にしたら落ち着くでしょうね」などと、私もすぐその気になってひとしきりワクワクしてから「主人を説得できるといいのですけれど」などと、にわかにしおらしい大和撫子風につぶやきつつ退散するのだ。
 住宅地を過ぎて森に歩み入り、やわらかい木屑が敷かれた足に優しい小道をしばらく進むと、突然パッと視界が開けてイングリッシュ・ベイと、その向こうの森と山々とダウンタウンの摩天楼が一挙に現れる。何度歩いてもそのたびに息を呑む一瞬だ。
 と散歩の道筋について書き続けていたらきりがないので、デイテールはこの秋海竜社から刊行するつもりの本でお読み頂くことにして家に戻る。今回は勝見シェフも滞在しているので、いつものダイエットは不可能で、東京に勝るとも劣らない酒池肉林の日々である。今日は泊り客たちも帰って二人だけだから、冷蔵庫の残り物で簡単に済ませようと言っていたのに、散歩のときふと立ち寄った酒屋で面白いワインをみつけてしまったので、やっぱり飲み相手がいなきゃ詰らないと、我が家のガーディアン・エンジェルの一人チャーリー赤崎さんと邦子夫人を招集しての長夜の宴になる。島暮らしの休暇から帰ったばかりのチャーリーさんが釣って来てくれたカレイを勝見が料理したらこれが絶品。釣りの腕と料理の腕を互いに称えつつ、日本では手に入らない珍種のイタリア・ワインをぐいぐい。あとは有り合わせでスパゲティーのポモドーロとビーフステーキという、平凡ながら結局は一番美味しいメニュー。
 そうそう七月六日は私の誕生日だった。その前夜はリッチモンドの新瑞華海鮮酒家でチャイニーズ・ディナー。ホストの勝見は小型飛行機の操縦に凝っていてその日も飛行の後、飛行場から教官を連れて駆けつけて来た。教官というのがなんとまだ二十台のかわいい日本女性。ワーキング・ホリデーで来て飛行免許を取りとんとん拍子で教官になってしまったという優秀な人なのだ。ワーホリの若者には日ごろ失望の嵐だけれど、こういう人もいるのだと嬉しくなった。でも中華料理はちょっと失望。値段もはじめかのうちの倍くらいは高くなったし、そろそろ河岸を変える時期かもしれない。七日には大竹加代さんと飯田景子さんが、最近評判のレストラン「ムスタシュ・キャフェ」に私と勝見を招待して下さった。ワインはボクがにもたせてくださいよ」と、勝見が胸を叩いたのはいいけれど、料理より高い豪奢なワインを選ぶのでハラハラ。「この華やかな香り、深くまろやかな味わい、女性の成熟もかくありたいものだね」と、これは私への賛辞なのか皮肉なのか。まあ、ともかく愉しい夜だった。トシをとるって悪くない。
 十四日には日本総領事館でリサイタルとディナー。五月に我が家で大竹香織さんがハープを演奏して下さるホーム・コンサートを催し大好評だったので、そのときご出席の楠本総領事ご夫妻が、次会は公邸でと申し出て下さった。ここではフルートとピアノも加わっていっそう華やかだ。香織さんは現代音楽が得意で、びっくりするほど激しい演奏をするので、優しいムード・ミュージックみたいなハープしか聴いたことのない人は俄然認識を改め、感動していた。それにしても香織さんの才能は凄い。六月に里帰りの折には東京のカナダ大使館でリサイタルが開かれ、定員オーバーする大盛況だった。でもやはりハープという楽器は活躍の場が少な過ぎる。リサイタルをして下さるところがあれば、私も応援団として司会でも宣伝でもボランティアで致します。御用の向きはメールでご連絡を。
 
 十七日に一旦帰国。あまりの温度差と湿度差に心身共にパニック状態で一日中ボーッとしながらも、山積した雑用と格闘している。

 
旅便りその四 北京・パリ・ロンドン
 (2000.7)


 北京もパリも猛然と暑く、地球温暖化を改めて実感させられた。とはいえ、この両都市で最大の魅力は深く歴史が刻まれた街のたたずまいと、活気にみちた人々の暮らしぶりなので、毎日汗にまみれハアハア喘ぎながらも街歩きに励まずにはいられない。
 連れ合いの勝見洋一が五月に講談社の現代新書で「中国料理の迷宮」という本を上梓した。その中に登場する料理人への挨拶を兼ねて北京の名菜を食べ歩こうという旅なので、円卓を囲むのに丁度いい人数の仲間とつるんでにぎやかに繰り込んだ。フランス文学の奥本大三郎、鹿島茂両教授、私が一番好きなフレンチ・レストラン「ラブランシュ」の主人の田代シェフ、そしてフランスでソムリエ・コンクールに優勝し美食ガイドブックの審査員もつとめた勝見など、たまたまフランス仕込みの食いしん坊が勢揃いである。いやあ、壮絶な食べ歩きだった。
 朝は朝市の雑踏の中でさまざまな屋台を物色しながら、熱い肉饅頭をアフアフ頬ばったり、犬のように鼻を鳴らして香ばしい葱もちや羊肉の串焼きに齧り付いたり、顔を湯気に包まれながら粥や汲み出し豆腐の餡かけを啜ったり。これは死ぬほど食べたって一人数十円の世界。
 昼はなるべく客がいっぱい入っている麺館や家常菜館を行きずりに選んで雪崩れこむ。冷たい前菜がイタリアン・レストランのようにズラッと並んでいるのを片っ端から貰って、まずビール。老虎菜(胡瓜と青唐辛子と香菜のピリッと辛く爽やかなサラダで北京の代表的味覚の一つ)醤牛肉、涼盤豆腐、辣白菜などなど、これだけでも私は満足なくらいだけれど、連中はメニューからも肉団子のから揚げ、木須肉(キクラゲと豚肉の卵とじ)、糖酢魚片などなど肉料理や魚料理も五、六品は取り、滅法強い蒸留酒もガンガン空けるのだ。
 こうして罰当たりにも昼間っぱらから死ぬほど食べて飲むのに懐に罰は当たらず、せいぜい一人二百円ぐらいで済むし、夜になればまたちゃんと食欲が蘇り、今度はフランスのミシュランで言えば二つ星クラスの料理屋で、いよいよその日の主役を張る美酒美肴とくんずほぐれずの長夜の宴に突入する。毛沢東の故郷の湖南料理で名高い馬凱飯店では香り高いスープの中にうっそりと蹲っている大きなスッポンが箸でハラッとほどける清蒸元魚、山西料理の名店晋陽飯荘では観光ディナーの定番として堕落するばかりの北京ダックよりはるかに美味しい家鴨の丸蒸し揚げなどの名物がやはり最高で、フーフーうめきつつベルトを緩めてお代りを頼んだりする有様。こういう料理屋は外人用の特別室などに入ってしまうと俄然料金がはね上がるけれど、私たちは勿論普通の市民たちに混じって食べるから、こんな大贅沢でも一人当たり千円足らずなのだ。
 ピンの夕食でもキリの朝食でもそれぞれに美味しいのが中国の嬉しいところだが、さらに桁の違うスーパー・ピンで日本並みの値段の料理屋もある。外人相手のただ高いだけの詰らない店が多いが、本当に三ツ星デラックスの名店も幾つかあり、その一つで政府高官ご愛用の豊沢園飯店に併設されたホテル(こちらは気楽な二つ星程度だし、下町の真中にあって街歩きに足場がいい)に私たちは泊まっていた。一度はここで思いっきり散財しようと張りきってディナーを予約したのに、当日になって店の都合で突然キャンセルになり、一体何事だろうとムッとしたが、実はあの金正日がひそかに来中してここで食事をしたため人払いされたのだと後でわかる。
 翌日に延期された私たちの宴会は、金正日の残り物かもしれないひときわ高級な食材が惜しみなく使われた山東料理で、生きているように蠕動しつつ舌に溶ける名物のナマコの葱焼きをはじめ、繊細微妙に洗練され尽くした味は間然とするところがなかつた。
 この席には豊沢園の女社長(政府派遣の経営者でバリバリの共産党幹部)と名高い特級調理師の料理長を招待した。そうしたら翌日はお返しに料理人クラブに招待されて昼の大宴会。流石に皆へとへとで、一回ぐらいは胃袋を休ませようと、夕食代りに演芸場に繰り込んで漫才や曲芸や京劇のサワリなどを愉しく見物したが、小屋がはねた後、しんしんと暗い夜更けの胡同をそぞろ歩きながら帰館の途中、遠くに見えて来た夜食屋の灯りに蛾のように牽き寄せられて、結局はまた死ぬほど食べることになる。
  こうして毎日必ず三度死んでは三度蘇る北京の日々を、ついしつこく反芻してしまったが、他人の美食話を読まされるくらいアホなことはないという方々は、どうぞお許しを。実は私も世に溢れるグルメ談義にもうゲンナリしているのだが、広東料理だけが国際化して世界を制覇し中国料理の概念が偏ってしまった今、中国本土の味については、もう少し語られることがあってもいいのではないかと思う。
 詳しくは勝見洋一の「中国料理の迷宮」を。彼は古美術鑑定のために文革時代から始終中国に出入りしてピンもキリも食べまくり、あらゆる料理とその背景を熟知しているつわものだ。世界中どこへ行っても、彼はその食べっぷりのよさでレストランの主人やシェフに愛されて親友になってしまうが、中国では親友では済まず、義兄弟の契りを結ぶことになる。これにはちゃんと儀式があって、弟は兄の足下にひざまずき床に叩頭して服従を誓い、兄は「尽くせよ」とふんぞりかえって杯を与えるのである。今回も兄の一人で、既に引退した伝説的老料理人のアパートに招かれて、もうレストランでは出て来ない古い北京料理をご馳走になり、そのとき同行の田代シェフも新たな弟になって杯を受けた。

 さて私のお目当ての骨董の方は、さしたる収獲がない。七、八年前まではまだ市場が混沌として掘り出し物の宝庫だった中国も、もうすっかり落着き、良いものは手の届かない値段になってガラスケースの中に収まっている。かっては宝物が泥にまみれて転がっていたこともある日曜市を一応は覗いて見たが、ゴミ同然の古物と新しいガラクタの山に過ぎなかった。といっても、昔の料亭で使っていたらしい漆塗りの丸盆がなかなかいい風情なので千円で買い、元時代の皿の破片も五百円で買った。これが完品だったら何億円もするのだろうが、割れてしまっては十分の一の破片に百万分の一の値段もつかない。しかし、破片を掌にして完璧だった昔の姿を想い描くのもイマジネーションがどんどん膨らんで愉しいものだ。私の破片コレクションもかなりの数になる。
 パソコンのせいで字が下手になるばかりなので習字を始めようと、硯も物色したが、名だたる収集家の奥本先生が傍で眼を光らせておられるので、これは張り合いようがないと一歩下がって、清末の或る文人が愛用していたという可愛いらしい携帯用硯を一つ買うに留める。

 五月末に帰国してすぐ、横浜の骨董部屋でファンド・レイジング・パーティー。二万円という高い会費にも関わらず十人の定員に十五人の応募があった。もう当分パーティーはないのでお断りするに忍びず、二回に分けて全員をお招きしたので、二夜連続のフルコース・イタリアン・ディナー。流石にちょっとくたびれたが、皆さん本当に素敵な方々で愉しく話が弾み、頑張った甲斐があったというものだ。食材のストックも、プレゼント用に海外で買い集めた旅土産も今回できれいに無くなったし、桐島サロンはこれをもって長い夏休みに入ることになる。ファンド・レージングの成果はきちんと計算を済ませてからご報告する。

 六月六日には長女のかれんが三人目の娘を出産。次女ノエルの娘と合わせて私は女ばかり四人の孫の祖母になったわけである。私は桐島家で百年ぶりとかいう女児として誕生したそうだが、そこから流れが変ってほとんど女ばかり生まれるようになった。幸い皇室ではないから、女だけでおおいに結構。これからはいよいよ女の時代になるだろう。

 さて自宅に溜まった雑用を片付ける間もなく六月十五日にはまたもや日本を発ち、アムステルダム経由で二年ぶりのパリに到着する。中国とフランスに関しては極めて頼もしい勝見も同行している。それから私の横浜のアッシー・オバサンでファンド・レイジング・パーティーの裏方としても活躍してくれる阪東加代子さんを、日頃の感謝をこめて招待した。仕事の都合で二日遅れて到着した彼女はヨーロッパははじめてだというのに、空港からホテルまでタクシー代を節約し、重いスーツケースを引きずりながら地下鉄を乗り次いで来るという逞しさで私を驚かせた。これならべったりエスコートしなくても、適当に放牧して大丈夫だろうと、観光が苦手な私はホっとする。
 私はパリではサンジェルマン・デ・プレ界隈に泊まるのが好きで、今回はジャコブ通りのホテル・アングレテール。なかなか予約がとれないこの小さな三ツ星ホテルは、昔イギリスの総領事館として重要な外交の舞台になった由緒ある館である。瀟洒な中庭を見下ろす四階の部屋はまあまあの風が入るので、これならなんとかしのげるとほっとする。年々暑さが募るばかりのパリでも、こういうホテルはたいてい頑固に冷房をつけないので、冷房嫌いの私も流石にときどき音を上げて、ガンガン冷やした現代的大ホテルに移ろうかと節を屈しかける。しかしやっぱり、パリは古いプチ・ホテルでないと感じが出ないのだ。
 ホテルが決まると、その界隈に行きつけのキャフェを作るのが私の習慣だ。サルトルやボーボワールが書斎代わりに愛用したことで知られるドゥ・マゴが近くにあるものの、今や観光客のメッカなので敬遠し、ブッキ通りの小さな市場の辺りまで歩いて、花屋の隣にあり時折フッと漂う花の香りが快いキャフェに落着いた。ここのクロアッサンの味は抜群だが、その仕入れ元である向かいのパン屋はお菓子も大人気でいつも行列ができている。梨や苺の薄切りを花びらのように並べてシットリと、しかもクリスピーに焼き上げたタルトは絶品で、普段甘いものは苦手な私まで「お菓子が好きなパリ娘」状態なのだ。

 あまりの暑さで街歩きは長続きしないし、ショッピングにはあまり興味がないので、今度のパリは美術館でかなりの時間を過ごすことになる。三十年数年前はじめてヨーロッパに来て、子供の頃から美術全集を繰り返し眺めては憧れたさまざまな名画の本物に対面したときの感激は忘れられない。編集者になって有名作家たちの本物と対面したときはかえって失望した事が少なくなかったが、好きな絵の本物に失望することはないし会う度に新しい魅力を発見したり、相対的に自分の変化に気づいたりして、決して飽きることがない。
私にはオルセーが一番愉しく、特にロートレック、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどの前では、麻薬でもやっているみたいにハイになってしまうのだ。
 ルーブルでは坂東さんにつきあって久方ぶりにモナリザやミロのヴィーナス詣でもしたけれど、こういうスーパー・スターにしか関心のない人が多いようでラッシュの地下鉄状態。本でもベストセラーだというだけで買う人が多いのと同じことだろうが、ここでしか会えない地味な作品を見過ごしてしまうのは勿体無い。私はこの日は静かな工芸品のセクションに長居して昔の職人の魂が凝縮した精緻な作品をじっくりと鑑賞した。
 オーギュスト・モロー美術館はモローが自邸と作品をそのまま遺贈したもので、タイムワープして彼に招かれたような気がするほど当時のままに保存されている。大作「奇跡」をはじめて間近にまじまじと眺めたら、細部が意外に粗雑な感じがする。彼のイマジネーションは凄いけれど、脇が甘いというか、心に描いたことを技術的に完全にはフォローしきれない画家だったのではないかと思ってしまう。だから私には作品より家の方が面白かった。吹き抜けのアトリエにある螺旋階段の美しさに魅惑される。螺旋階段というのはいつも何故か私の深層に響くものがあるオブジェなのだ。寝室や居間も画家が等身大に感じられて興味深い。部屋の置物などは凡庸で、私のアンティークの方が上等じゃないかと、ちょっといい気分。
ジャックマール=アンドレ美術館は十九世紀の富裕な銀行家夫妻の邸宅と、そのコレクション。ここはこれでもかこれでもかと贅を尽くしたミニ・ヴェルサイユで、人の家を見るのが好きな私もここまで豪華だと、もう勝手にしてよという感じであまり興味を持てない。ルーブルに匹敵する資金で買い集めたという夥しい美術品も、私がジャックマール夫人ならおねだりしただろうと思うのはボッティチェリやヴァン・ダイクの数点と幾つかの陶磁器ぐらい。まあ、これでいいのだ。こんな大金持ちが最高に趣味までよかったら、われわれ貧乏人は救われないものね。

 高級フランス料理はあまり好きではない。ヌーベル・キュイジーヌは一時の冴えを失ったまま、お皿に絵を描くようなキレイキレイ路線で女子供に媚びる店が多いし、だからといって勝見が好きなどっしり保守的な料理も苦手なのだ。だから名高い三ツ星レストランなどはアメリカのIT成金やロシアのマフィアに任せて、私たちは簡素なビストロ料理を食べ歩く。一番の贔屓はオデオンに近いシャルパンチエで、ここの日替わりランチで土曜日のシュー・ファルシ(キャベツの肉詰め)が楽しみだ。それからパリで必ず食べるのはクスクスとフリュイドメール。クスクスはモンパルナスのゲテ通りでアルジェリア人がやっている粗末な店が行きつけだが、今回は他の料理も食べたいしワインも飲みたいと、サンミシェルのちゃんとしたタジーン料理屋を選んだら、レモン・チキンは美味しかったものの、クスクスはちょっとマイルドで物足りない。
砕氷を敷いた上に新鮮な海の幸がワッと居並ぶフリュイドメールがこの猛暑の中でも健在だったのには驚喜した。かって私が臨月のお腹を抱えてロシアや北欧を巡ってからはじめてのパリに降り立った懐かしのリオン駅の前にあるブラッセリ‐で、よく冷えた白ワインと、冬よりもむしろまったりと味の濃い生牡蠣やパリジェンヌという小股の切れ上がった感じの小海老や夏が旬の大西洋の蟹を堪能する。

 サルトル研究家で日本では少ない優雅な独身中年の海老坂武さんから一年間パリに住むというお知らせを頂いていたので連絡してみたら、早速お招きがあって、見事な鴨の丸焼きを中心にした男の手料理をご馳走になる。昔貴族の舘だった豪奢な建物で、門の正面にある海老坂さんの部屋は馬車庫を改装したものらしく、アールのついた天井の高さは普通ではない。死体を隠しても絶対にばれそうもない深い地下庫もあり、「ここにワインを蔵えば完璧だなあ」と勝見は涎を流さんばかり。こういう生活をみると北米派の私でもパリで暮らしてみたくなる。

 パリで一週間過ごしてから国際列車ユーロスターでロンドンへ。ドーバー海峡のトンネルを通るのはこれがはじめてだ。ファースト・クラスではちゃんと食事も出て、これが飛行機より美味しいのは嬉しい驚きだった。
 ロンドンは急に涼しい。この頑固な石造りの町は幽霊が棲息しやすい環境らしく、幽霊話が凄く多いし、霊界にアクセスできる人がまた多く、ちょっとやそっとの霊能力ではとても仕事にならない。だから、いい加減な霊能者がすぐエラそうに教祖化してぼろ儲けする日本より、ずっとリーゾナブルな料金でグレードの高い霊媒に会うことができるという、スピリチュアリズムの本場であり穴場なのである。以前ロンドンで会った女性占い者のあまりに的確な霊視や予言に驚いたことが、私が見えない世界を信じ始めるきっかけになったのだ。そのことは「見えない海に漕ぎ出して」に書いたが、残念ながらその人は数年前に他界してもう会うことができない。
 ロンドンの中心部にSAGBといってスピリチュアリズムの総本部のような立派な教会があり、そこのホールで毎日霊媒のデモンストレーションがある。前に一度面白半分に覗いてみたら、二十人ぐらいの客がぱらぱら座って待つうちに、その日の当番霊媒らしい見るからに冴えない老人が現れて、無造作にしゃべり始めたと思ったら、突然同行の連れ合いをハッタと見据えて苦しそうに胸を押さえ、数時間前に彼が経験したばかりの心臓発作を再現したり、数ヶ月前に彼の父親が死んだことなど、いろいろと見ていたように話したりするので仰天したものだ。小さな個室では予約制で、三十分二十ポンド、約三千五百円の個人セッションも受けられる。今回私がそこで験してみた年配の女性霊媒は発想がいかにも小市民的常識の範囲を出ないのでどうもピンと来なかったが、やはりSAGBに所属する霊媒で、唯一の日本人である金城氏を自宅に訪ねて受けたセッションは面白かった。彼はもともと画家志望だった人なので、相談者の背後に見える霊をスケッチすることができるのだ。それが死んだ家族や友人の顔だったりしたら、ああ、やっぱりと信じられるのだが、私の後ろに見えたというのは大正はじめ頃らしい髪型の、文学者を名乗る暗い感じの女性で別に心当たりがない。しかし同行の坂東さんに関する霊視は実によく当たり、背後の人のスケッチも彼女のオジさんにそっくりだと言うのだ。まあ、信じようと信じまいとの世界だが、関心がおありの向きもあろうかと、一応ご報告しておく。

 ロンドンではいつもエスニックが楽しみなのに、インド料理もタイ料理も甚だしく外れで頭に来る。特にタイのパタラは前に大感激した店なので、裏切られた思い。エスニックは流行り過ぎていい気になり手抜きを始めたのだろうか。ロンドン名物フィッシュ・アンド・チップスはノッティングヒル・ゲイトのジールス・レストランがぴか一なので,今回も真っ先に駆けつけたが、いつもほど感動しない。夏は魚自体の味が多少落ちるのだろう。
 ロンドンで一番美味しかったのは、永年の愛読者で二人の幼子と五匹の猫を抱えておそろしいほど忙しく働きながら、いつも無理やり都合をつけて私のロンドン・アッシーをつとめて下さるノーマン・テイラー・邦子さんのお宅に押しかけ、スーパーで買出しをして勝見が腕を揮った男料理だった。

 ロンドンから坂東さんは帰国し、私たちはトロントへ。八年前に講演会に招んで下さったハーモニーインターナショナルというトロント在住日本女性会の面々が、今回も集まって暖かく歓迎して下さる。当時の会長だったバラル博子さんの豪邸に泊めて頂いたが、前回のときとは家が違っている。前の家は香港のまだ若い金持ちマダムが一目で気に入り、「ご主人へのご相談は」と訊いても「これくらいの買い物は私だけで出来るわ」と可愛げなく言いきり、ろくに中も見ないで言い値でパッと買ってくれたのはいいけれど、明渡しが済んだその日にブルトーザーが来て、跡形もなく家を潰してしまったのには唖然茫然だった。「だってわざわざ何万ドルもかけて改装したばかりのキッチンも、心をこめて整えた造り付けの家具もカーテンも花壇も、すべて一瞬にゴミにされたんだからショックでしたよ。要らなきゃ要らないと言ってくれたら、他に生かしようもあったのにと、悔しくて」というバラルさんの気持ちはよくわかる。カナダ人は家や庭を子供のように慈しみ育てるのだ。「そして庭いっぱいに、キンキラキンのお城みいな家を建てたのよ」
 ヴァンク‐ヴァ‐でも中国の金持ちが冗談みたいに大げさな豪邸をあちこちに建てている。食についてはあれほど洗練されたセンスを誇る中国人が、住となるとどうして急に悪趣味になるのだろう。

 さて、こうして無事ヴァンク‐ヴァ‐に到着。翌日には日本から陽気な女友達が二人やって来て、毎日が宴の日々が始まった。ヴァンク‐ヴァ‐便りはまた日をあらためてお送りする。


 
旅便りその三 ヴァンクーヴァー(一)
 (2000.4.21〜2000.5.23)

 七ヶ月もヴァンクーヴァーを留守にしたのは、林住庵が出来てからはじめてのことなので、心ならずも冷たくしていた恋人と再会するようにちょっとナーバスな気分だったが、到着してみれば昨日もここにいたみたいにスッと自然に受容されて、ヴァンクーヴァーの日常に溶け込んでしまう。    
 今回の滞在は一ヶ月。その間に体重を五キロ減らすこと、次ぎに出版する本の構想をまとめて、少なくとも最初の一、二章ぐらいは書き上げること、インターネットに習熟してホームページももっと充実させることの三つを目標にして来たが、こちらの家では何故かインターネットの接続がうまく行かず、早くも目標の一つは挫折することになりそうだ。この原稿はプリント・アウトしてファックスで日本に送ればいいが、パソコンがおかしくなったら原稿書きさえできなくなるのだと思うとヒヤリとする。助けてと叫びさえすれば夫や息子が救援に現れる日本とは違うのだ。ああ、早く器械に強くなってしっかり自立しなければと改めて反省する日々である。
 ダイエットは順調で、もう二キロも減った。といっても決してひもじい思いをしているわけではなく、毎日文句なく美味しい食事をもりもり食べている。カナダでは牛や豚などの赤い肉は食べないが鳥や魚はいいというセミ・ベジタリアンが増えているので、私は普段でもそれに倣った食生活を習慣化しているが、ダイエット中は鳥や魚の量を減らし、ご飯やパスタなど炭水化物も減らし、その分を多種類大量の野菜で補い、バターと砂糖は追放し、油はエキストラ・バージン・オリーブ油だけにする。なにしろこちらは野菜が元気で味が濃いから、たとえ野菜だけでもかなり満足度が高いのだ。興味のある方は、ラ・ヴィ・ド・トランタンの連載エッセイで七月号にもう少し詳しく書くし、さらに詳しくはいずれ本にも書くつもりなのでそちらをどうぞ。そうそう、恒例のパーティーも、一度痩せたい人だけ集めてダイエット・ディナーにしてもいいかもしれない。
 こちらに来てからは部屋の整理や庭の手入れにひとしきり忙しかった。私の寝室のベッドをキングサイズに変えたので(残念ながら新しい恋人が出来たわけではない。娘のノエルが帰国する友人から譲られたものの、自分のアパートには大き過ぎるのでこちらに運び込んだのだ)そのサイズの寝具を揃えたり、ナイト・テーブルやスタンドを増やしたりと、私のホビーであるインテリア作業を久しぶりで楽しめた。二畳分ぐらいあるベッドを、海と山と森を一望にする窓際に置いたので、ベッドの上が一日中座っていたいくらい居心地のいい場所になった。これなら年老いてたとえ寝たきりになっても、それなりに幸せだろうなあと思ってしまう。
 庭ではチューリップが花盛り。桜と木蓮はそろそろ終わり、代りに石楠花が咲き出した。隣家の花水木の大木も真白に満開だ。塀越しにこちらに張り出した枝は切ってもいいことになっているので、沢山頂戴して家中の花瓶に生けた。
 日曜日に大好きな散歩場所の一つであるヴァン・デューセン植物園で種苗のセールがあったので、草花をいっぱい買ってきてあちこちに植え、ハンギング・フラワーも作る。畑には夏用の野菜の種を撒いた。庭と真面目につきあったら限りなく仕事があって一生退屈することはなさそうだが、まだ他の事でも結構忙しいので、それはまだ先の楽しみだ。我が家の庭や畑は貧相でも、きちんと手入れされた公園や、自然を生かした森や、息を呑むような風景や、見事な庭作りの家が至るところにあるし、自然食スーパーに行けばみずみずしい有機野菜が犇いているから、大庭園と自家農園と大勢の園丁を擁した億万長者とさして変りのない暮らしが出来るのがヴァンクーヴァーなのである。これなら税金が高くても納得できるなあと、散歩の度に感に堪えている。
 一人のときは午前中は一応机に向かい、午後は外に出て足任せに歩き回り、森や海辺で瞑想や気功をしたり、心行くまで自然に浸り暮らしている。日本からの泊り客があるときには、これに観光のドライヴやショッピングやレストランの食べ歩きも加わってかなり忙しいが、それがまた愉しいのである。綺麗でしょう、気持ちがいいでしょう、美味しいでしょうと、ヴァンクーヴァー自慢をしたくて堪らないという、まるで親馬鹿のような症状なのだ。
 ところで、この夏にもしファンド・レイジング・バカンスを希望なさる方があれば、七月一日から十日の間をその枠として開けてあるので、詳細の問い合わせや申し込みはEメイルでお早めに。私の留守中も説明や受け付けはできるようになっている。私は五月二十三日に一旦帰国してから、すぐ北京に一週間。そして六月十五日からパリ、ロンドンなどを回り、二十七日頃ヴァンクーヴァーに到着する。

旅便りその弐 チェンマイ
 (三月十八日から八泊)

 タイは大好きな国の一つで何回も来ているが、北部のチェンマイは初めてだ。ヒマラヤの裾野に位置し、十三世紀にはランナータイ朝の王城が築かれたこの町は、今も商都として賑わい、とくに衣料や伝統工藝が豊富で買い物が愉しい。最近アジアの服や雑貨のブティックとして急速に人気が出ている摩那ハウスの社長で古い友人の那美麻利子さんが仕入れに来ていたので、四日間彼女につきあってさまざまな工房やマーケットを巡り歩いた。そして昼夜選りすぐりのレストランで大御馳走。彼女のタイでのゴッドマザー、ツカタさんがずっとエスコートしてくれるから、いつも最良のメニューを堪能できる。バンコクよりずっと物価が安く、ホテルも立派なツインルームが朝食付で五千円もしない。目当てのタイマッサージはホテルの中の外人値段でも一時間九百円だから、街中ならもっと安く心ゆくまで揉んで貰える。
 二晩だけは思いっきり優雅に贅沢を楽しもうと新しい豪華リゾートのリージェントに泊る。ここはお値段も国際的で街中のホテルの十倍近いが、やはりそれだけのことはある極楽体験なのだ。以前はこういうホテルに泊ると、刻々とガチャガチャ凄い勢いでメーターが上がっていくようで気が気ではなかったり、精一杯楽しんで元を取らなきゃと張り切りすぎたりしたものだが、ようやく本当に寛いで、そこに静かに流れる時間をゆったりと楽しめるようになった。しかし街中の安ホテルに泊って、タダみたいに安い屋台を食べ歩いたりするのも、また棄て難く愉しい。ファースト・クラスに乗るともうエコノミーには乗れなくなる人が多いが、私はいつまでも、どちらの世界も自在に棲みこなせる自由な人間であり続けたいものである。

チェンマイ写真館もご覧ください。


旅便りその壱 セドナ

セドナ

 一月八日から一週間、マハーサマーディ研究会主催のセドナ・ツアーに参加した。この研究会はベストセラー『ここまで来た「あの世」の科学―魂、輪廻転生、宇宙のしくみを解明する』(祥伝社 ISBN:4396103549)をはじめ精神世界を冷徹な科学者の目で解析する著作で注目されている天外伺朗さんが主催する瞑想の会である。だからセドナ・ツアーも勿論ただの観光旅行ではない。終始同行してくれたインディアンの長老と毎朝六時からパイプ・セレモニーや瞑想を共にしたり、メディシン・ウーマンから薬草使用の実地講義を受けたり、真っ赤に焼いた石を囲んだ灼熱の空間に身を寄せ合い汗を流しながら祈るスェットロッジを体験したり、本物のインディアンの精神と伝統に深く触れる濃密な日々だった。まだ詳しいレポートを書く時間はないので、取り敢えず以前に一度セドナを訪れたときの旅行記を「林住期を愉しむ」から抜粋してここに転載しておく。セドナがどういう性格の土地であるかは、これでも一応おわかり頂けるだろう。この特別な土地に天外伺朗さんをはじめ、気功と漢方の大家・矢山利彦医師、算命学で名高い中森じゅあんさん、そして近くその数奇な生涯が映画化されるらしい世にも格好いいインディアン、セコイア・トルーブラッドさんが勢揃いしたのだから、こんなに凄い旅はざらにあるものではない。いろいろと不思議な経験も多かった。どうぞリポートをお楽しみに。

セドナ写真館もご覧ください。(撮影:桐島洋子)

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