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謹賀新年新世紀          2001年元旦

 「今年こそ・・・」の狼おばさんを返上して、本当に今年こそもう少し真剣に仕事をし、書を学んで筆で恋文を書き、気功や自然食でシェイプアップに励み、・・・・と、これ以上言うより、不言実行。ともかく期待して下さればよいプレッシャーになるので、どうぞよろしく。

 年末ぎりぎりまで中国に行っていた。まず北京に飛び、一週間前に来ていた勝見洋一と合流。ファンドレージング・パーティーの収益の一部で購った車椅子を届けてから、寝台急行で上海へ向かう。北京の親友の董炎軍氏と老料理人の程さんが同行し、上海では鹿島茂夫妻も合流する。
(写真:北京→上海の車中 食堂車の朝食ビュッフェ)

 ホテルの上海大夏(夏の上に雁垂れがつくべきなのだが、私のパソコンではその字が出て来ない)は、幼い日に父母に連れられて上海に渡った当座、半年ほど滞在していたブロードウェイ・マンションの同じスイートである。真珠湾攻撃と同時刻に日本軍がアメリカの軍艦を砲撃したのを、この部屋の窓から目撃したのだ。茫然と立ち尽くしている私たち親子の眼前のバルコニーに突然上から鎖梯子が垂れて来て、重武装の日本兵が続々と降り立ち、「この部屋は作戦本部にするので即刻立ち退きなさい」と居丈高に命令されて、私たちはパジャマの上にコートを羽織ったまま難民のようにすごすごと別の部屋に移った。夜が明けると、ホテルの下をびっしり埋めていた兵隊がザッザッザと軍靴の音を響かせて橋を渡り、対岸のバンドに建ち並ぶ欧米のビルの接収を開始した。星条旗やユニオン・ジャックが次々と引きおろされ、代わりに日章旗が誇らしげにはためくのである。毎日仲良く遊んでいたアメリカの少年の部屋も、朝になったらもぬけの殻で、一緒に飾りつけたクリスマスツリーだけが、虚しくきらめいていた。彼の一家がうまく逃げたのか収容所に入れられたのかはわからない。(当時のことは、フェリシモ出版から刊行した「ガールイエスタデイ」にもう少し詳しく書いたので興味のある方はそちらをどうぞ)(写真:昔のブロードウェイ・マンション 懐かしのバルコニー。右側は昔のままのバンド風景)

 バルコニーからの眺めの右半分は今も昔と同じバンドの風景で、ロンドンそっくりの重厚な石造りのビルが並んでいるが、左半分はピカピカの摩天楼が競い立ってSF的な変貌を遂げている。たった三、四年ご無沙汰しただけの上海の、あまりに急激な発展に度肝を抜かれた。物も溢れてお金さえあれば何だって買える。孫に上海土産を買いたいという程さんにつきあってデパートの玩具売り場を歩いたら、これでもかこれでもかという品揃えに頭がくらくらする。一人ッ子政策の中国で、一家の期待を一身に集めた子供は王子様王女様だから、父母や祖父母たちは一生懸命に貢がなければならないのだろう。年金でつましく暮らす程さんの予算では及びもつかない物が多いようで、彼の苦悩の表情に私も心が沈んでしまう。こんなに富を見せびらかされる環境で、貧しい家に生まれた子供は親を恨むかもしれない。(写真:左側は新興経済地区 浦東の新ビル群))

 一歩中に入れば欧米の大都会にいるのと変らない豪華ホテルや優雅なレストランやクラブもいっぱいある。今や上海は、昔の「魔都上海」は勿論のこと、香港だって追い抜いてしまった。道端に餓死者がごろごろしていた悲惨な時代を知る私としては、よかったよかったと祝福しないではいられないが、一方どうしてこんなにも急ぐのだろうとハラハラする。一般民衆の大多数は依然として貧しいし、中国全体、特に貧しい東北の農村とピカピカ上海はあまりにもかけ離れて見える。欲望全開で早い者勝ちの金権至上主義の陰に、貧富の格差が急激に拡大している。せっかくあれほどの血と汗を流して革命を成し遂げたのにと思うと何か哀しい。

 クリスマス・イヴは目ぼしいレストランは全て満席。しかし上海の有力な友人のはからいで、「新吉士酒楼」にやっと予約が取れた。昔のフランス租界の瀟洒な洋館を改装した最近評判の店である。「わあ、お洒落なインテリアじゃない」とはじめはルンルンだつたが、給仕長がメニューの説明を始めるなり、なにやら険しい空気が流れる。北京人二人、特に頑固な老料理人が一々文句をつけるのだ。上海人の方も、なんだ、北京の田舎者めがという態度を露わに見せる。北京と上海の相性の悪さは聞いていたが、ここまでひどいとは思わなかった。(写真:鹿島茂夫妻と、預園の茶店で)

 ただこの場合、公平に見て北京組の文句はほぼ正しく、高いものばかり勧めたり、料理の順番を違えたり、盛り付けの全容を見せもしないではじめから小皿に分けて来たりでサービスは落第点だし、釈然としない味の料理も幾つかあって、この店には失望した。

 最後に若いウェイターがスープを私と鹿島夫人の服にひっかけるという駄目押しの大失敗。これで、喧嘩の仕上げをしてから、クリスマス・イヴの仕上げはホテルの私の部屋に全員集まって、ライトアップしたバンドを眺めながら乾杯した。今年をもって上海ノスタルジーは卒業だ。二十世紀最後のクリスマスにふさわしい、ちょっとセンチメンタルな卒業式である。

 翌日は鹿島夫妻を案内してオールド上海散歩。楊樹路の旧ユダヤ人ゲットーに向かう途中、昔の劇場がレストランに変っているのを見つけて昼食に入る。当時、ナチスの迫害を逃れて来た音楽家たちのすばらしい演奏を、ゲットーのユダヤ人が涙を流して聴いていた場所である。音楽好きの父母はここに通って貧しいアーティストたちを物心ともに熱心に援護し、私はフィナーレに花束を捧げる役をつとめたものだ。

 風邪気味の私は午後はホテルで休養し、ぼちぼちと年賀状を書く。いつも気が付いたときには手遅れで年賀欠礼になってしまうことが多いのだが、中国で発行されている年賀葉書を見たら、コンピューター・グラフィックを駆使した絵柄が華やかで日本のものよりよっぽど面白いので、友達に送りたくなったのだ。籤までついているのだが、もし当たってもわからないのがちょっと口惜しい。

 上海在住のEメール・メート柳原さんがホテルに来訪して初対面。私世代にとっては上海のランドマークだったこのホテルもユダヤ人ゲットーもご存知なく、川を渡ったのも始めてだと聞いてちょっとショックだった。このホテルの裏の方がかっての日本租界だったが、今は西部地区の虹橋空港近くに林立する家賃数千ドルのプールやジムがついた高級マンションに数万の日本人が割拠して、昔よりはるかに優雅な日本人社会を形成しているらしい。柳原さんが持って来た「スーパーシティー」という、なかなか出来のいい日本語の情報誌を読むと、その様子がよくわかる。私も「海外での子育て」について取材を受けることになり、日を改めて柳原さんがライターの長田さんとカメラの林さんを連れて来た。皆、昔のことこそ知らないけれど、中国語はぺらぺらだし、現代の中国事情は的確に理解しているし、中国に住むという機会をシッカリ活用している頼もしい大和撫子だ。特に長田さんは、中国の女性以上に気が強く、こちらが先に手を上げたタクシーを横取りした客と猛烈に怒鳴りあいつつ、運転手の方は巧みに懐柔し、とうとう相手を降ろしてしまうという日本人離れした荒業で私を感嘆させた。上海の車の混雑は凄まじく、ナンバーの奇数偶数で振り分ける交通規制があるので、その日に走りやすいナンバーのタクシーは取り合いなのだ。

 勝ちとったタクシーで長いトンネルを走り抜けた先にある新興ビジネス・センター浦東の盲人按摩治療院は最高だった。視力がない分、感覚が手指に集中するのだろう。そして一時間わずか四十五元(六百円)。ああ、これが日本なら毎日通うのに。

 勝見は珍しく下痢でダウン。いつも一緒の食事仲間は全員無事なのだから、思い当たる原因はただ一つ。兄弟の契りを結んだ程さんが、「弟」の健康を気遣い、もっと野菜と果物を摂りなさいと、前夜ホテルの部屋でトマトを切り、リンゴを剥いて勝見に強引に食べさせた。よく洗ったそうだけど、水道で洗ったのだろうからナマ水を飲むのと同じこと。われわれは免疫のある中国人とは違うのだ。いくら上海がピカピカに近代化しても、水道の水は昔と変らないのだろう。いやあれだけ急激にビルを増やしたのだから、水事情はむしろ悪化しているかもしれない。

 こんなこと程さんには気の毒で言えない。知らぬが仏の程さんは、可愛い「弟」が全快して食卓に復帰すると、献立に一層うるさく干渉するようになった。活きた蟹や海老や貝を酒に漬けこんだものが大好物なのに、野蛮な生食などとんでもないと、老北京原人に冷たく却下されれ、やれやれ兄孝行もラクじゃないと勝見は憮然としている。

 北京原人とは対照的にスマートな生粋の上海人の友人もいる。その呉無尽氏は、数年前帰化したので今は日本人で姓も天海に変っている。十年前に知り合ったときはまだちょっと不遇な状況だったが、これはタダモノではないという気配を漲らせた魅力的な人だった。やがて麒麟麦酒に入社するとたちまち国際的に才能を発揮し、アジア各国を駆け巡って重要な人脈を広げどんどん業績を伸ばしている。彼がどこまで大きくなるかわからないが、私たちの個人的な友情は変らないだろう。

 私たちが帰国する前日に、天海氏がやっと上海に戻って来たので、辛うじて一夜、彼と一緒に過ごすことができた。こういう人といると、にわかに上海がいきいきと輝き華やいで見える。夕食に案内された「徐家私房菜」は茶房の二階にある隠れ家風の小さな店だが、流石に今回の上海で最高の味゚酸辣蟹黄魚鰭は蟹の卵がいっぱい入った辣くて酸っぱいフカヒレのスープで、絶品としか言いようがない。濃いオレンジ・スープに小さな餅が浮いているデザートも素晴らしい。こういう鮮やかな技を見せてくれるなら、ヌーベル・シノワも大歓迎だけど。

 二次会はパッと別世界にワープして、ドイツの貴族の館みたいなビア・ハウスで作りたてのビールとソーセージとライブ・ミュージックを愉しんだ。ほんとにミュンヘンにいる気分。うーむ、やるじゃない。上海はやっぱり魔都なのだ。

 二十九日夜に帰国。中国へ出発前にはノエル母子と九州の温泉巡りで、大分の奥耶馬溪、佐賀の熊の川、嬉野、武雄と泊まり歩いていたので、家に帰るのは半月ぶりだ。散らかし放題で飛び出した部屋の始末と郵便物の整理に手一杯で、とても正月の準備どころではないが、幸いあちこちからの頂き物があるから三が日くらいは十分生き延びられるだろう。もつべきものは良き友人である。多謝多謝。

 東京の自宅で年を越すのは随分久しぶりだ。大晦日は勝見と義母、それに奥本大三郎教授も加わって延々と長夜の宴。最近一の贔屓の料理屋、赤坂「と村」から、勝見のサントリー学芸賞受賞のお祝いにと届けられた、ふぐ刺しと白子とふぐちり、金沢の古美術店「谷庄」のご主人から到来の香函蟹、同じく金沢の鋳物工場主、明石氏から贈られた特製のかぶら鮨など日本最高の美味を揃えた罰当たりな食卓だ。酒はシャンパン「クリュッグ」から始って、「〆張鶴」「雪中梅」など日本酒の一升瓶も次々と開けられる。全くもう飲みだすと際限のない男どもで、いつもなら途中で私は引退するのだが、年越しの夜ではそうもいかない。いくらちょびちょび舐めるだけでもこれだけ長時間にわたると私も酔っ払いの仲間入りで記憶は朦朧。辛口の文化論がえんえんと盛り上がっていたけれど、覚えているのは「一杯の掛け蕎麦」とあいだみつおと立松和平に共通する耐え難いクサさをコテンパンに罵ったあたりまで。あ、それから何故か勝見が高橋源一郎氏に電話したら、向こうはワインと鴨鍋で盛り上がってて、まもなく新世紀の子作りにとりかかるとか。来年の九月頃、ほんとに赤ん坊がうまれるのかなあ。

 新着のデジタル・ハイビジョン・テレビで紅白というのもチラッと覗いて見たけれど全然詰らない。でも他のチャンネルで聖者の風格のカザルスを発見し、思わず居ずまいを正して一同粛然と「鳥の歌」を聴いた。二十世紀最高に美しいチェロの音は、これほどの酔いさえも貫通して深く深く心に響く入り、遂に去っていく世紀の美しい余韻を魂に刻んでくれた。これほど完璧なフィナーレが他にあるだろうか。明けましておめでとう。

 元旦は昼頃に勝見の弟の充男さんと洋子夫人、四歳になった一人娘の夢ちゃんがやって来て、珍しくも勝見家勢揃いの祝膳を囲む。といってもおせちなど用意していないから、メインは境港で上がった見事な松葉蟹とブリの刺身。元バンク‐バー総領事で米子市長を目指す野坂康男氏からの宝船である。黒豆だけは「と村」で煮たものをちょっぴり頂戴しておいたが、流石に舌を蕩かす黒い珠玉。お雑煮は洋子さんが材料持参で作ってくれた。つまり私は終始何もせずでんと坐って食べるだけ。ひどいヨメなんだろうけど、もともとヨメなんて意識がないんだから仕方がない。

 今年は年賀状を見るのがおっかなびっくりだ。今年の干支が、私が最も忌み嫌う生き物だから、次々とその姿が現れて意識に押し入りトグロを巻き、初夢を悪夢にしてしまうかもしれない。ギャッというほどリアルな絵を送って来たりしたら絶交ですからね。ま、さいわい今のところは、まあまあ我慢できる範囲だけど、まだしばらくは油断できない。テレビにも気をつけよう。

桐島洋子
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