*** 知は誰のものか ***
(2月11日)

NHKスペシャルの新シリーズが始まる。
ひとつに「知は誰のものか」というテーマがある。
インターネットが普及するにつれ(さらにブロードバンド化にともない)、問題になっている「著作権」をどう扱うのか、とても関心がある。

私は寺沢武一というマンガ家の著作権管理を業務としており、80年代からデジタル・パブリッシングを推進してきた立場から、いろいろな立場で「著作権」と関わっている。
彼は1991年にはペンを捨て、Macを制作ツールとして、来たるべきマルチディバイス時代のための作品づくりに励んでおり、私はその権利を守り、そしていろいろなメディアに「切り売り」することを商売としている。

そうした立場からは、当然「著作権はいかなる場所においても守られて当然であり、作家は権利を主張するべきである」という意見を持つべきなのだろうけれど、「個人的」には「著作権てなんなんだろう」と思うことがある。
先日もあるところで、「作家は自分の作品に自信を持ち、権利を主張することによって尊敬を得る」ということを言うアーティストがいて「え? そうなの?」と、これまた不思議な気持ちになった。
私からすると、アーティスト(作家)というのはもっと純粋な、溢れるようなクリエイティブな気持ちを表すことが重要であり、金品などは2の次なのではないかと思っていたからだ。
つまり、作家が夜昼なく、もしかしたら飲食さえかまわず何かに熱中していて、それに感動するパトロンがいればいいし、いなければ野たれ死にする。それが作家であり、アーティストだと、私は思っていたのだ。

しかしながら、あたりまえのことだけれど、資本主義のなかのアーティストとは、生産活動のひとつであり、人々の尊敬と金品を得るためのビジネスであってなにがおかしい。それが正しい。
にも関わらず、やっぱり、「作家が権利を主張するのはあたりまえである」と主張する作家、あるいはアーティストには鼻白むのはなぜだろう。

そもそもインターネットが開発された当初は、複数のコンピュータを接続し、組織の壁を越えた情報交換が可能になるということが最大のメリットであった。
軍事使用から学術使用となり、大学どおしがネットワークされることに意義があった。
商用となる以前にも機密漏洩については問題となっていたが、権利問題は現在ほど重視されなかったように思う。権利問題よりもまず、インフラの整備が選考していたからだったかもしれない。
いずれにせよ、知識の共有であったインターネットが、知権のとりあいの場になったということだ。

私自身は、願わくばインターネットはあくまでも「知識の共有の場」であってほしいと思う。
誰もがアーティストで、誰もがコンテンツ・プロバイダーでいいではないか。
所詮、主張したところで、現在の法律では著作権は死後50年間しか守られない。

すべての人が権利を放棄したらどうなるだろう。
当然、いいものはパクられ、パクられたもののほうがいい場合もあれば、トラブルも増えるだろう。

「世界がもし100人の村だったら」という本がベストセラーになっている。
日本で発売している本の著者は、原作者ではない。
「民間伝承として、チェーンメールで伝わった」というエクスキューズで出版されている。
そこには著者(翻訳者?)のほかに、編集者、出版社、印刷会社、紙の業者も知らないこととはいえ、加担している。
「著作権料を全額寄付する」そうだが、では発端の学者はそんなことを期待し、許諾したのだろうか?
でも、この本は売れ、「いい影響」を各所に与えている。
パクり、ではないかもしれないけれど、ネットワークの隙間を狙った事例のひとつだと思う。
これがもし音楽だったらどうだろう?
原作者は、原音の権利を主張するだろうか?
りミックスが元よりよかったら、オーディエンスは誰にグンパイをあげるだろう。

顔の見えないインターネットでは「いいものがいい」のであり、「いいもの」が原作とは限らないのではないだろうか。
だからこそ「原作者」を守ろうということなのかもしれないが、じゃあ、「編集者」の権利はないのだろうか?
「録音係」はどうなんだろう?
「助言」をしただけでもアドバイスをした権利を主張したっていいのだろうか?

権利を放棄したら、資本主義は崩壊してしまうのだろうか?
「ここにあるもの」が「みんなのもの」になったら、「感謝」や「尊敬」はなくなるのだろうか?
形がなければ、お金がなければ、生活していけないのだろうか?

エジプトには「喜捨」(バクシーシ)というものがあり、誰もがあたりまえのように手を差し出す。
「もらうのがあたりまえ」という態度はどうかと思うが、もともとの「喜んで捨てる」というものに私は共感を覚える。
持てる者が持たざる者へ喜捨することができる社会って、悪くないと思う。

ところで、1993年に発行された「月刊Asahi」の「近代日本の異能・偉才 実業家100人」という特集を読んだ。
すきやきから財閥まで、いろいろな事業の明治大正時代の創始者はすべて男性である。
では、女性はダメなのかといえば、きっと影で支える妻や愛人がいたからこそ、こうした男たちが活躍できたのではないかと類推する。
男を支える女は永久に表には出ないが、それはたとえば「司馬遼太郎の担当編集者」というのと同様、いなければ偉人を育てることができなかったはずだ。
そうした影の存在に気を払うことがない多くの男たちは、いつも目先の利益ばかり取り合っているように思えてならない。

男、女という性の差異ではないかもしれないが、「権利を主張すること」については、権利者として、そして被権利者として、さらに「権利者を支える立場として」今後も考えていきたいし、いろいろな意見や考え方を学んでいきたいと思っている。


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